映画の1つの作品は、1つのゲシュタルト(全体性を持ったまとまりのある構造)となっています。
全体としてどんなゲシュタルトを作るかが、その映画の良し悪しやストーリーの面白さなどを決める重要な要素です(観る側にはそれぞれの楽しみ方があるとは思いますが)。
ゲシュタルトは、全体と部分が双方性をもって意味が決まります。
観る側は、あらかじめ作品全体のゲシュタルトは分からず、鑑賞を進めるに従って、少しずつ部分が加わっていき、その部分との双方性で意味を取りながら全体を頭の中で構築していきます。
全体が徐々に頭の中で作られるに従って、部分も意味が分かったり、意味が変わったりもします。
中には最後まで観終わって、作品の全体像(ゲシュタルト)が分かって初めて「なるほど。あの部分はそういう意味だったのか」と部分の意味が分かる場合もあります。
特にミステリー映画は、最後の結末でどんでん返しなどがあり、その瞬間に(部分である結末によって)観る側が頭の中で作ってきた全体がひっくり返ってしまう醍醐味があります。
最近観た『鑑定士と顔のない依頼人』(ジュゼッペ・トルナトーレ監督、ジェフリー・ラッシュ主演)というミステリー映画も、最後の方で加わったある’部分’によって、それまで私が頭の中で構築してきた’全体’であるゲシュタルトが見事にひっくり返えされました。
そして、全体が分かると、それぞれの役が今までとは違った人物に写り、また、伏線であった部分の意味も理解できたり、違った意味で捉えることができました。
この映画は、結末を知った上で二度観ることで、今度は180度違うストーリーが見えてくるという映画の紹介があったので、実際に二回観てみました。
確かに、全体のゲシュタルトが分かった上で観直すと、部分の意味が違って見えてくる楽しさがありました。
この映画自体を楽しみながら、ゲシュタルトということを理解するにも良い映画だと思います。
人生というゲシュタルトも、過去のゲシュタルトに、これから新しい部分を入れることで、全体としては全く意味の異なった人生のゲシュタルトを作ることができます。
そうすると、その全体との双方向性によって、過去の出来事の意味も変えることができます。
これがコーチングで起きるどんでん返しの醍醐味でもあります。