ハンガリーの首都ブタペストから北へ向けバスを走らせると1時間半ほどでコチ村の入り口であることを告げる看板が見えてきました。
その看板が目に入ると遂に来たぞ、と心が躍りました。
この看板こそが私がマインドの中で描いていたものでした。
コーチの語源であるコチ村に行こうと決めた時、コチ村がどんな所かは想像ができませんでした。
インターネットで情報を探しても、村の様子が詳細に分かるものはなく、きっと田舎の村で、現在は取り立てて見るものも無いだろうと思っていました。
少なくとも観光地や都市のようではないだろうと。
でも何も見るものがなくても、私は一向に構いませんでした。
コーチの語源であるその地に立つこと自体に意味を感じていたからです。
とはいえ、何も映像が無ければ自然にそこに向かっていくことも難しいものです。
そこで、コチ村であることを告げる看板(標識)は、少なくともそこにあるだろうと思い、その看板(を見ている自分)、そして看板の横で写真を撮っている自分の映像をマインドに描きました。
そして、そのイメージが私のマインドの中の新たな「支配的な映像(Dominant Picture)」となりました。
私たちは、マインドの中にある「支配的な映像」に向かっていき、それを実現しようと無意識が働きます(そのようなマインドの働きを「テレオロジカル」といいます)。
そして、私達のマインドの中の「支配的な映像」と現実はまだそうなっていないというギャップが、エネルギーや創造性を生み出します。
私はマインドの中にあるその「支配的な映像」に引き寄せられるようにコチにたどり着きました。
看板を見た瞬間、「支配的な映像」の一つが現実のものとなりました。
ただそれは一瞬の出来事で、バスは看板の横を素通りして行き、コチ博物館へと向かって行きました。
これでは、もう一つの「支配的な映像」であるコチの看板の横で写真を撮っている映像が実現していません。
そこで、ガイドさんに博物館を見た後に、コチ村の入口にある看板の横で止まって写真を撮りたい旨を告げました。
コチ村を訪れた後もスケージュールが詰まっていたので、ガイドさんはその時間を取るのが惜しそうでしたが、私としてはこれが実現しないとマインドとのギャップが埋まらないので、それは譲れませんでした。
そして、博物館と古民家を見学した後、次の目的地に向かう途中で、コチ村の看板の横でバスを止めてもらいました。
バスを降り、看板の横に立ち、写真を撮ってもらいました(私のその姿はとても嬉く満足そうだったそうです)。
遂にもう一つの「支配的な映像」が現実のものとなりました。
もちろん来るまではどんな看板かは分かりませんでしたので「Kocs」と書かれた文字だけの看板をイメージしていました。
実物は馬車を模した看板で想像以上のものでした。
それが下の写真です。
この映像がまず私の内側(マインド)から始まり、そして外側に広がり、現実のものとなりました。
コーチ仲間も連れていくことができ、決して一人だけでは味わえない体験もできました。
これこそが「全ての意味のある永続的な変化はまず自分の内側で始まり、そして外側に広がる」というコーチングにおける中心的なプリンシプルを体現したものです。
All?meaningful?and?lasting?